キャンペーン


状況報告

2004年12月30日
ゴスペル・ハウス・ハンディクラフト


スリランカの人口の0.1%が死亡し、5000人以上の人々が行方不明となっています。この事態を受けて、ゴスペル・ハウス(GH)は支援を開始しました。12月30日、1500リットルの水、ビスケット500パック、砂糖500パック、歯磨き粉、歯ブラシとせっけんの500パックを2台のトラックに積み込んで南部の海岸の町、タンガッラに向けて出発しました。タンガッラ・ベイ・ホテルのディレクター、マヘンドラ・ソイザも同行しました。GHチームは視察をして、本当にこの救援を必要としているエリアを探し、医者のランジャン氏が診療所を作ることができる場所を確保しようとしていました。

医療支援
村民に我々が支援に来たことを告げ、話し合いました。ケマゴダの住人で全ての物を失った、ジャヤダサという人と出会い、無料の診療所をどこかに作れないか、それを手助けしてくれないかと尋ねました。彼の紹介で近くの家に「アガペ緊急診療所」を開設することができました。そこは大通りに面し、避難所からも近い場所にあります。ランジャン・ソイザ医師と看護士は、病人や怪我人の診療を開始しました。津波の影響を受けなかった家の人が、診療所のために自宅を開放してくれたのです。その時、現地を視察していた保健所の地域担当者が診療所を訪れ、ランジャン医師にお礼を述べました。その担当者は、怪我をして破傷風ワクチンを打ってない人に対してワクチン注射ができるよう、ランジャン医師に協力を求めました。南部の州での破傷風ワクチンの不足は深刻で、ランジャン医師の手持ちの在庫も即座になくなりました。200名を越える怪我人が、この無料の診療所に診療を求めてやってきました。

ピヤソマという老人が3輪自転車で診療所にかつぎこまれました。ピヤソマ氏は津波にのまれ流されている間に左足に深い傷を負い、息子に助け出されました。病院では砂が入ったまま傷口を縫合し包帯を巻かれたため、ランジャン医師は再び傷口を開いて消毒しなくてはなりませんでした。老人も若者も医師の助けを求めにやってきました。また、僧が診療所を訪問し、薬を寄付してくれました。

一方、私はジャヤダサ氏の家を訪れました。ジャヤダサ氏はすべてを失っていました。家具や、生計を立てていた三輪自転車、農地、契約の書類、衣服、子どもの教科書。でも彼は幸運だったと感じていました。家族が皆助かったからです。


仮設診療所が軌道に乗ると、私たちの次の仕事は海岸地域の被災地に赴くことでした。私たちはカドゥルポクナという漁村に入ろうとしましたが、警察に阻止されました。津波警報がまた出されており、スリランカ海軍はすべての人々が避難するよう求めていました。しばらく足止めされましたが、私たちはその地域に入ることを許されました。

ダーマシリという名の、村出身の37歳の漁師が私たちをボランティアでガイドしてくれました。ダーマシリ氏はカドゥルポクナ村で代々漁師をしている家の出身でした。私たちは彼の家まで1kmほど歩きましたが、付近の家はすべて壊れ、人の姿はありませんでした。壊れた家を何軒も覗いてみましたが、家の中のものが全て散らばり泥をかぶっていました。幾つかの家では9時20分で時計が止まっていました。ダーマシリ氏の家は海岸線から800mのところにありました。私たちは彼に何が起こったのか聞きました。

「12月23日に、トロール漁船で南方の海に二人の同僚と共に15日間の漁に出たんです。26日の朝にはインド洋上400km南のところにいて、妻が死にその他の家族は無事だということを無線のメッセージで知りました。地上と連絡を取ろうとしましたが連絡がつかず、私たちは家に戻ることを決めました。3日間かかってやっと29日朝に帰ってきました。私が見た風景は廃墟となった埠頭、水に浮かぶ自動車、また遺体さえも浮いている状況でした。初めはこれはサイクロンのせいだと思いました。でも毎時間ラジオで気象ニュースを確認している私たちが、このような災害に気づかないことがあるでしょうか?海岸までやってきたとき私は家に向かって走り出しました。見る家、見る家全てからっぽで、そこは破壊され尽くした地域で、乗り物はやぶの中に転がっている有様でした。友達のニマルに会い、妻のチュシャリに何が起こったのか聞きました。彼は私の肩を支えてくれながら話をしてくれました。妻のチュシャリ(32歳)と二人の息子、ハリンダ(11歳)とナドゥン(4歳)、私の父ピヤセナ(58歳)、母グナシーラ(56歳)は津波にのまれ亡くなったとのことでした。私はとてもショックを受けました。「津波」という言葉を聞いたことがありませんでしたが、ニマルが後で説明をしてくれました」。

ダーマシリはこらえきれずすすり泣きを始めました。「12フィートもの高さの波が突然この地域を襲ったんです。日曜日だったからチュシャリも子どもたちも家にいたに違いありません。子どもたちは庭で遊んでいたんでしょう。28日朝、チュシャリ、ハリンダ、ピヤセナ、グナシーラの土砂に埋もれた遺体が近所で発見されました。ニマルが遺体を確認してくれましたが、腐敗がすすんでいたのでその日のうちに全て埋葬されました。13歳の長男、ダソンだけが生き延びました。ダソンはチュシャリの姉妹と一緒にいて会うことができました」。ダソンは言っていました。「僕は庭にいて、お母さんと弟たちは家にいんだ。突然大きな音がして、家の高さをこえる波の壁が押し寄せた。僕はお母さんを呼んだが波にさらわれ流された。何かを必死に捉えようとしたが流された。木のほうに流されなんとか捉まって木に登ることができた。近所の人が叫びながら流されていくのを見た。12分ぐらいたって水が引き始めなんとか降りることができたんだ」。ダソンは彼の母や弟、祖父母は全く見なかったと言っています。ダソンは深いショック状態にあるようでした。ダーマシリは一番末の息子ナドゥンの生存を信じて探し始めました。庭を歩いているとき、ダソンの教科書とハリンダのシンハラ語のノートが見つかりました。私たちはダーマシリに何ができるか尋ねました。ダーマシリは「ナドゥンをお願いだから見つけてください。さもなくば私を死なせてください。海からの恵みを受けて14年暮らしを立て、18分で海はそれを飲み込んでしまった。」

救援活動報告
道すがら、また、避難所でさえも、津波に影響を受けていないにもかかわらず無料の水と食料を得るために救援物資を受け取っている人々を目撃しました。これは救援部隊がなんとかしなくてはならない大きな問題です。私たちは断固として、救援物資は真に被害を受けた人のためだけになければならないと感じます。これが全ての避難所の真の目的です。救援物資がもし避難民でない人々に配布されたなら、本当に被害を受けた人々の手に救援物資が届くことはないでしょう。私たちは状況を分析し、良心的でないいわゆる「避難民」が、昼間だけ避難所を転々とし、夜に集めた物資を持って家に帰ることに気づきました。そこで、私たちは本当に必要としている人々のために夜に食料と水の配布作業をすることにしました。

カドゥルポクナ村を訪ねた後、私たちはタンガッラ・ベイに救援物資を詰めるために戻りました。夕食後すぐ、タンガッラの町の北にあるウッサラパスワナラマヤ、シーニモダラア寺院に向かいました。そこにはナクルガムワ、ワラワッテ、コトゥカンナワ、マウェラの海岸地域から120家族が避難していました。遅い時間だったため、120家族は3つの建物に分かれて、もう子どもたちは眠りにつき、大人たちも寝るところでした。十分な場所はなく、少ない持ち物とともにひしめき合って寝ていました。この避難所は、その村出身のスランガ氏によって率いられた4人の大学生とともにきちんと運営されていました。大学生は救援物資を下ろし、配布するのを手伝ってくれました。
この避難所には220名の避難民がいて、多くの人々が愛する人々を亡くし、また持ち物をなくし、家が破壊された人々でした。備蓄食料はありましたが、粉ミルクはもうなくなっていました。私たちはこの避難所が一緒に働いていくべきところだと思いました。スランガ氏に何が必要か訪ねると、「男性、女性用の下着が至急必要だ」と答えました。

これがこの避難所に対する最初の支援でした。そして今、私たちはこの避難所を継続的に支援していこうと計画しています。私たちは長期計画を立て、避難している人々が自立していけるよう支援していこうと考えています。私たちは今、追加ボランティアを募っています。





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