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支援報告

親愛なる友人へ

1月14日はスリランカでは宗教上の休日でした。ゴスペル・ハウス(GH)チームは朝トラックに食料をつんでタンガッラ向かいました。

タンガッラに到着し、人々がくつろいでいる夕方のパラップワ避難所を訪ねました。そこで漁師たちお願いして壊れた家屋や船を案内してもらいました。壁が残っているところもありましたが、家屋の多くは倒壊し、基礎の土台や床がむき出しになっていました。船の何隻かはかろうじて修理できそうでしたが、バラバラになった船も多く残骸と化していました。

漁船やエンジンの修理が完了し漁に出られるようになるまで、漁師や家族のために収入を創出する投資プログラムを私達は提案することにしました。説明会を開催すると全員がこのプログラムに大賛成で参加すると約束してくれました。女性が私達のところに歩み寄り、ココナッツのコイヤ(ココヤシ皮の繊維から採る)繊維を撚り合わせる技術を持っていると言い、器具を支援して欲しいと求めてきました。別の女性グループはセメントブロックの製造を支援して欲しいと言ってきました。建設業界ではセメントブロックの非常に高い需要があります。ヘマンサとスニルに出会い、カヌー作成開始についての計画について話し合いました。二人はファイバーグラス製のカヌーに必要な原材料のリストを私達に提示しました。これらの恩恵全てを彼らが受けられるよう独自の協同組合を設置するよう私達は彼らを励ましました。

私達は三つのプロジェクトに必要な資材や元手の提供を決断しました。GHはコイヤ撚糸の設備とセメントブロック製造の機械の納入業者について調べており、ファイバーグラス製ボートの原材料についてはすでに発注済みです。

シーニモダラ地区からの帰り、私達は一部の損傷している家屋に人が入っているのを見かけ、何人かに話しかけました。波がドアや窓、壁、屋根の一部を流してしまい、家具の大半を失ったと言っていました。家が略奪に遭うことを恐れ避難所に残りたくなかったとも言いました。彼らもまた漁民であり収入の手段を持っていません。救援活動は彼らの元には届かず、援助品はすべて避難所までしか届かないと不満をもらしていました。食料や必需品がないための苦労を口にしていました。また、井戸が津波によりひどく汚染しているため、彼らは皆飲料水を外部からの供給に頼らねばなりませんでした。

夕方にはアメリカのInternational Service Partners(ISP)のボランティアグループに合いました。彼らは避難所を救援し灯油使用の料理用コンロを80台提供しました。ISPは頻繁に避難所を訪ねており、落胆している被災者の多くにカウンセルをしています。

翌朝、私達は一家族毎に話を聞き必要な物を調べました。今回私達は先週の定住パックを受け取り損ねた24家族のグループに的を絞りました。

訪問中何人かは椅子を勧めてくれました。プラスチック製の椅子(唯一所有する家具)は壊れており、多くは近くの干潟から拾った物でした。前回の訪問で枕を二つ求めた女性、パドミニさんに合いました。彼女の夫、ジャガスさんが一緒でした。そして彼女に何が起こったのか聞きました。「26日はポヤの日(仏教の休日)でした。仏教徒なのでジャガスは漁に出ませんでした。9時15分頃私が昼食の仕度をしていると近所から悲鳴が聞こえました。外に飛び出しましたが、家を取り囲んだ壁のような水によって上に放り出されました。中にいる子ども達に向かって叫ぶと子ども達が叫び声を上げて助けを求めて私を呼んでいるのが聞こえました。海に引き戻される時息子のヴィムクティ(12才)と娘のサンデュニカ(5才)もまた波によって海に引き戻されていくのが見えました。娘のサンデュニは「おかあさん、おかあさん」と叫んでいましたが、私は別の大きな波によって陸に押し戻されたのです。その時私は屋根をつかみ、5分後に壁のような水が引き戻されるまでしがみついていました。私はジャガスと叫び彼は私に子ども達はと聞きました。近所の人たちが屋根や木々の上で波に引き戻されそうになっている人達を引っ張っているのが見えました。私はヴィムクティとサンデュニの名前を呼びながら叫んでいました。ジャガスが私のところに走ってきて子ども達の事を尋ねました。水は膝の高さまであり、家屋の大半は倒壊しましたが私達は何が起こったのか全く分かりませんでした。私達は子ども達の名前を呼びながら、自宅の方に水が押し寄せてきたあたりを歩き回りました。自宅は倒壊しブロック壁の一部が残っているだけでした。近所の人達の遺体を目にしましたが、壁の下で押しつぶされていたり中には子ども達もいました。何人かの人が近くの寺を見に行くようにといいました。安全のため寺に駆け込んだ人もいたからです。しかし誰もいませんでした。ジャガスと私は何時間も歩き回りましたが、子ども達は見つかりませんでした。夕暮れまで海辺に沿って歩きましたがまだ見つかりません。波が運んだ泥に突っ込んでいる近所の人達やその子ども達の遺体を目にしました。安全のため寺に向かうよう警察に言われましたが、私は泣いて子ども達を探してくれるよう懇願しました。ジャガスはもう一度夜海辺に行きましたが成果なく早朝帰ってきました。翌朝早くもう一度海辺に行きましたが遺体が散乱していました。干潟の近くに2,3の遺体が横たわっていると友人が話してくれましたので駆けつけたところそこにヴィムクティの遺体がありました。ヴィムクティを抱き起こしそこに横になり、なぜ私達にこんな仕打ちをしたのかと神に尋ねました。私達が何をしたというのでしょう。ジャガスはサンデュニを探していました。娘は小さいので海に浮いているかもしれないし必ずどこかにいるはずです。私の兄弟が災難を聞きつけてやってきて、息子の遺体の側にいる私を見つけ出しました。私の兄弟はバイクに乗ってヴィムクティのための棺桶を探してマタラからハムバントタに向かいましたが一つも見つかりませんでした。ジャガスと私は家をなくしたので息子の遺体を保管するところもなく、同日夕方には息子をサロンで包み埋葬するよう言われました。私はジャガスと一緒にサンデュニだけでも生きて返しくれるよう強く願いました。翌朝ジャガスと私は自宅のあった場所に戻ったのですが更にもう一つ災難にあったのです。小さなスチール製の食器戸棚の中にあった所持品がすべて略奪にあっていたのです。一メートル程離れたところで食器戸棚を見つけましたが、誰かがこじ開けていました。銀行貯蓄は私達の文化に馴染みがありません。金の装飾品に投資しお金は自宅に保管していました。食器棚は私達の金庫代わりでしたので、装飾品もお金もすべて失いました。今日で21日目になりますが今でも「おかあさん、おかあさん」と叫んだ可愛いサンデュニが声が聞こえます。ジャガスは「僕は希望のないまま目的もなくただ生きている。何が欲しいのかわからないし、死んだ方がましかもしれない。」といいます。パドミニは私に最後の誕生日にとった、瓦礫の中から発見されたサンデュニの一枚の写真を見せてくれました。ヴィムクティの写真は一枚も残っていないと言いました。

そうです。避難所からのもう一つの悲しいお話です。

避難所の公共施設は大変ひどい状況にあります(他の多くの避難所よりはましですが)。通常の給水設備の側で米を洗っている女性がいましたがすぐ側には牛の糞がありました。同日朝私達は公共保健局の職員に避難所を見学してもらい、避難所の問題を直に見て、衛生や公共保健について人々を教育するよう求めました。午前中には定住パックの配布を終えました。給水問題が間もなく是正されるよう願っています。

パラップワの避難所の住民は先週の土曜の夜から全員が料理し自分達の食事を作っています。私達は今後も避難所の被災者の自立支援を継続していいくつもりです。現在GHは緊急支援からパラップワの被災家族の再生と再定住へと移行しつつあります。

スリランカ政府は再建のための土地の支給についてはまだ明確な政策を発表していません。私達の感触ではあと数ヶ月延びそうです。即座に購入できる土地を探し、建設が完了次第これを被災者に引き渡すことをGHは決定しました。スランガを始めとする4人のボランティアは家屋の失った人達のデータをまとめつつあり、私達はこれを警察や政府の記録と照合していくことになります。

今日スランガはパラップワの避難所がタンガッラのシーニモダラに独自の漁業協会、「ピビデム・デヤワラ・ディーワラ・サミティヤ(漁業再起組識)」を設置したと私達に報告してくれました。

次の訪問では私達は収入創出プログラムのための備品や原材料を持っていく予定です。さらに、自分達の家に戻ると決めたものの援助を必要としているシーニモダラの人々を助ける最良の方法を模索する予定です。

収入創出プログラムのための具体的な提案は現在作成中です。

あなたさまのお祈りとご支援に改めて感謝をこめて

GHチーム、2005年1月18日



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